たとえ外国に写生に行ったとしても、わざわざ遠い外国まできたんだからと、ケチな根性を起こし、外国のどこそこの風景だとひと目でわかるような絵を描いてくることはない。それならなにも苦労して重い絵の道具など持っていくよりは、小さなカメラでも持って行った方がどんなに気が効いているかしれないだろう。
セツの生徒たちもツアーを組んでよく外国へ写生に出かけるが、このことだけは口が酸っぱくなるほどいって聞かせるのである。帰って作品を見てみると、かなりこれが生徒たちに効いているらしく、有名なノートルダムやサクレクールなどを描いている者はほどんどなく、ホテルの窓のゼラニウムだったり、ただベランダと海と空だったりすることが多い。それならなにもパリまで出かけなくても、日本でいくらでも描けそうなものだが……と人はいくかもしれないのだが、果たしてそうだろうか?
確かにゼラニウムはいくらでも日本にだって咲いているだろう。しかし、パリに行ったなら、日本では見向きもしなかった一本の花や木でも話しかけてみたくなろうというもの。一人の人間がそこにいて、新たな気持ちで自然に語りかけてみる。そこではじめて会話として写生が成り立ったのである。ここが大事なのだ!
---------------- 「わたしの水彩」より
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