Setsu. 1992-1995

1992年の秋から1995年の暮れまでの、長沢節先生の言葉を中心としたセツ・モード・セミナーの点景集 。 copyright (C) GRINO.

ある日のある(…)先生との会話

「タブローより、デッサンの方がその人自身が出てしまうんだよ」

 そうなんですか?逆のような気がしますが…

「デッサンはね、その人の興味とか何を見ているかが線になるわけだから、出ちゃうんだよ。色はね、ごまかしがきくから」

ある(白髪の…しつこいな)先生はいつも椅子に座られてデッサンをされていました。そのシックなたたずまいは女子生徒に大人気でした。ところで。

先生はアンディ・ウォーホールは好きですか?
嫌いだよ!キモチ悪いじゃない!あの人!

「こういう痩せているモデルさんはセツ先生のモデルだから こういうデッサンが上手くなっても、セツ先生にしかならないんだよ」

ふくよかな女性が好みらしい、ある(白髪の)先生は時々そんなことをおっしゃっていました。

みんなでマチスのデッサンを見ていたら、ある(白髪の)先生がコーヒーを持ったまま隣に座って構図の話になりました。

「うまいねえ」

 うまいですねー

「こういうデッサンは 画面という枠があるから成り立っているものなんだよね。画面を構成する為の線だから。こいういうところで、画面をキメているでしょう」

「たとえばセツ先生のデッサンは本人も言ってるように彫刻だから、人物だけ切り取ってどこの枠のどの画面に貼付けてもそのデッサンの価値は変わらないけれど、こういう画面のデッサンは、この枠をちょっとでも変えちゃうとたちまち価値が無くなってしまう。ね、ほら」

 ホントですね。線自体はきれいだけれど…

「これも構図だからね。でも『画面を構成する線画デッサン』というのはつきつめていくと…みんなマチスになっちゃうんだな、これが」

 先生はデッサンを描く時は、どちらなんですか?

「どっちがずなんだよね〜」

「デュフィなんてボクはうまいと思うのに、セツ先生はキライなんだよ。なんだ、あの太ったおばちゃん!なんてね。セツ先生は痩せたモデルしか描かないから」

というコメントを引用させていただいたある(白髪の)先生に、よく構図についてお話をうかがいました。

セツ先生のキライなデュフィの「3段腹のおばさんたちのデッサン」……マチスもふくよかな女性の線画デッサンを多く描いていますが、「3段腹のおばさん」という造形は四角い画面におさまりやすく構図がとりやすい、ということ。

構図としての好みであって、マチスやデュフィの女性の好みというわけではないだろう、ということ、などなど。

人物のタブローは、その人物を入れることによって生まれる切り取られた空間がどういう形になるか、というのが大事です。

画面における「色のコンポジション」と画面における「線のコンポジション」はまた違います。

「構図、構図」…セツにいる間に何度聞いた言葉でしょう。

「絵画は形と色の構図」というのはセツ先生のタブローに対する定義ですが、ここでいう「構図」とは、つまり画面をどう使うか、という平面芸術における構図(コンポジション)のことです。絵画芸術における「構図」というと遠近法などの立体構図(パースペクティブ)をまず思い浮かべる人も多いのですが、別物です。

構図というのは難しいものです。

「黄金率」なるものも、言葉で納得したがる人には都合のよいものでしょうが、実際に美しかったり力強かったり醜かったりする絵画を「描ける」人には意味のないもののようです。

composition

「構図だね、こういうのもやっぱり構図なんだよ」

---------------- ある先生、ある日の水彩の合評にて